ちょっと復活。
2006年8月31日私はオンライン小説をよく読みます。
必然、リンクを飛んでみてもページが見つからない、閉鎖されてしまったサイトさんに当たっちゃうこともあります。
面白いですよーと多くのひとがオススメする作品をもう読めないというのは、なかなかにキツイです。精神的に酸素うすいとこに放置されたよーな気分になります。オオオォ…と宙に片手を伸ばしたい。
実際、カカイルサイトさまのみならず、もう読めないオンライン小説が既にいくつも記憶にあります。
―――で、ここで私は思ったのです。
「更新停止、しかし閲覧はできる」と、
「すっぱりきっぱりネットから退出」という形態。
いったいどちらが胸苦しいかな、と。
結論から言えば「閲覧はできる」方がわたしは嬉しいのですが(もうその物語に出会えないのはダメージ重い)、
いったん話を書いたら、まあ完結すべきでしょうというのは当然の読者の欲求であり、書き手さんの中には自らに責任があると考える方もいらっしゃいます。
完結させるのが義務と思う方にとっては、尻切れトンボのまま、いつか続きを書いてくれるかもしれないという期待さえ放ってネットに漂う小説郡は、他人の無責任を増長させる悪因に見えるかもしれません。
私は、たとえそれでも「読めない」つーこと自体がツライのですが。
ただ、昨日まで当たり前に読めていた話が、ある日突然「閉鎖」という形で、二度と触れられないものになってしまう。
本でも、好きな服のブランドでもいいです。化粧水とかでいったら、突然「生産中止」を言い渡されたみたいなもんです。
もう、二度と手に入らない。
―――これに、理不尽さを感じなかったら、嘘だと思います。
好きであればあるほど、昨日まで何事もなかったのに何故、と哀しみ、戸惑い、焦り、でもどうしようもない無力感に溜息をつくことになるでしょう。
実際は、制作の場で、何事もなく生産中止なんてことはなく、中止に至る枝葉末節があります。いろんな理由が。
でもサイトの訪問者である読み手には、書き手の方の心の中まで覗くことはできません。見えるのはサイトの一部だけです。非常に情報量の少ない側面だけ。
だからやっぱり、いつだって閉鎖は突然で、事前の閉鎖予告にしたって唐突でしかなく、めちゃめちゃショックを受けてしまいます。
また、「先日まで自由に読むことができた」、ということ。
これはある種の毒みたいなもので、
今までオープンに開放されていたものに規制がかかると、ひとはまるで自分の権利が侵害されたかのように感じるものです。
元からなんの権利もなかったというのに。
一個人と一個人。サイトの管理者と訪問者はすべて無数のその関係で成り立っています。そこには義務も契約もありません。
間に唯一あるのは、マナーという、主観に頼った心もとない良心でしょうか。それにしたって人によって違うから困り物です。
サイトの管理者が「見せるのはいやだ」とか「やめる」とか考えたら、自由にそれを行い、また訪問者のほうも、自由な視点でそれを判断し、そのサイトに来るか来ないかを決めればいいというだけなんですが、実際に起こってみると―――けっこう難しいんですね。
やはりそれは、訪問者の「何故いま」という疑問と、自分の望みが断たれたことによる……やっぱ、憤り、なんだろうなあ。
上記で言った「毒」です。
見当違いとわかってはいても、私もなんでええぇぇってなるしなあ…。
いい例えが浮かびませんが、
すんごい一生懸命「お菓子の家」を作ってて、通りすがりの人が毎日、何人も家を見物していくわけです。
何人かから声をかけられ、すごいねー美味しそうだねーなどと会話したりもしますけど、基本的にひとりで、コツコツお菓子の家を組み立て続ける。
ある日、飽きたんでその家を壊そうとしたらば、通りすがりの人が「これまで毎日眺めて楽しんでたのに、なんで壊しちゃうんですか」とか嘆いてきたみたいな。
いやもう作ってる当事者からすれば、勝手に好きでやってることですから、そんなこと言われても困るわけですよ。金平糖きらきらしててキレイなんで、屋根に使ってくださいーとか言われても困るわけです。作るにも好みがあるから。
しかし一方、閲覧してもらうために公開した作品は、
発表した時点で、書き手から読み手に手渡した、ような感じにもなっています。
手渡すって言っちゃうと違うかな。
読まれた時点で、作品は、書き手だけのものではなくなると思います。作品―読み手、の関係に、書き手が割り込むことはできませんから。
だいいち、誰かに読まれた瞬間、もう、そのひとだけの解釈の新しい物語が一個生まれるみたいなものでしょう。
読み手と作品との一対一の勝負に、誰も横ヤリいれることはできねぇ!(熱血風)
そんなわけで、読者が作品に愛着を持つのは当然の流れです。
「閉鎖」は、単に好きだ面白いという感情だけでなく、読者が愛着を抱くにまで至った存在から、バッサリ切られてしまう衝撃があるんじゃないでしょうか。
だからあんなにもショックで、私なんかは、口惜しくて時には腹が立ったりなんかしてしまうのです。
もちろん、今までサイト運営お疲れさまでした…!の気持ちのほうがずっと強いのですが。
―――と、長文ぶったのは、ここまで読んでくださった方ならおそらく想像がつくだろう通り、
閉鎖なさったサイトさまがあったからです… orz
文章は残してほしかったな………。
カカイルサイトさまではなかったのですが。
不思議なもんで、商業誌の絶版を知ったときとは違う気持ちです。
絶版本のときは、アンティーク家具を求める好事家の気分になりました。翌日から古本屋を駆けずり回ったし。
今は、作者さまをブログなどで確認できるせいか、骨董品を前にした心地とは程遠いです。
古本ならな。まだどうにか入手できる望みもあるけどな。
…ネット小説は、頑張ってももう読めないだろうしな。orz ←自分の言ったことにダメェジ。
必然、リンクを飛んでみてもページが見つからない、閉鎖されてしまったサイトさんに当たっちゃうこともあります。
面白いですよーと多くのひとがオススメする作品をもう読めないというのは、なかなかにキツイです。精神的に酸素うすいとこに放置されたよーな気分になります。オオオォ…と宙に片手を伸ばしたい。
実際、カカイルサイトさまのみならず、もう読めないオンライン小説が既にいくつも記憶にあります。
―――で、ここで私は思ったのです。
「更新停止、しかし閲覧はできる」と、
「すっぱりきっぱりネットから退出」という形態。
いったいどちらが胸苦しいかな、と。
結論から言えば「閲覧はできる」方がわたしは嬉しいのですが(もうその物語に出会えないのはダメージ重い)、
いったん話を書いたら、まあ完結すべきでしょうというのは当然の読者の欲求であり、書き手さんの中には自らに責任があると考える方もいらっしゃいます。
完結させるのが義務と思う方にとっては、尻切れトンボのまま、いつか続きを書いてくれるかもしれないという期待さえ放ってネットに漂う小説郡は、他人の無責任を増長させる悪因に見えるかもしれません。
私は、たとえそれでも「読めない」つーこと自体がツライのですが。
ただ、昨日まで当たり前に読めていた話が、ある日突然「閉鎖」という形で、二度と触れられないものになってしまう。
本でも、好きな服のブランドでもいいです。化粧水とかでいったら、突然「生産中止」を言い渡されたみたいなもんです。
もう、二度と手に入らない。
―――これに、理不尽さを感じなかったら、嘘だと思います。
好きであればあるほど、昨日まで何事もなかったのに何故、と哀しみ、戸惑い、焦り、でもどうしようもない無力感に溜息をつくことになるでしょう。
実際は、制作の場で、何事もなく生産中止なんてことはなく、中止に至る枝葉末節があります。いろんな理由が。
でもサイトの訪問者である読み手には、書き手の方の心の中まで覗くことはできません。見えるのはサイトの一部だけです。非常に情報量の少ない側面だけ。
だからやっぱり、いつだって閉鎖は突然で、事前の閉鎖予告にしたって唐突でしかなく、めちゃめちゃショックを受けてしまいます。
また、「先日まで自由に読むことができた」、ということ。
これはある種の毒みたいなもので、
今までオープンに開放されていたものに規制がかかると、ひとはまるで自分の権利が侵害されたかのように感じるものです。
元からなんの権利もなかったというのに。
一個人と一個人。サイトの管理者と訪問者はすべて無数のその関係で成り立っています。そこには義務も契約もありません。
間に唯一あるのは、マナーという、主観に頼った心もとない良心でしょうか。それにしたって人によって違うから困り物です。
サイトの管理者が「見せるのはいやだ」とか「やめる」とか考えたら、自由にそれを行い、また訪問者のほうも、自由な視点でそれを判断し、そのサイトに来るか来ないかを決めればいいというだけなんですが、実際に起こってみると―――けっこう難しいんですね。
やはりそれは、訪問者の「何故いま」という疑問と、自分の望みが断たれたことによる……やっぱ、憤り、なんだろうなあ。
上記で言った「毒」です。
見当違いとわかってはいても、私もなんでええぇぇってなるしなあ…。
いい例えが浮かびませんが、
すんごい一生懸命「お菓子の家」を作ってて、通りすがりの人が毎日、何人も家を見物していくわけです。
何人かから声をかけられ、すごいねー美味しそうだねーなどと会話したりもしますけど、基本的にひとりで、コツコツお菓子の家を組み立て続ける。
ある日、飽きたんでその家を壊そうとしたらば、通りすがりの人が「これまで毎日眺めて楽しんでたのに、なんで壊しちゃうんですか」とか嘆いてきたみたいな。
いやもう作ってる当事者からすれば、勝手に好きでやってることですから、そんなこと言われても困るわけですよ。金平糖きらきらしててキレイなんで、屋根に使ってくださいーとか言われても困るわけです。作るにも好みがあるから。
しかし一方、閲覧してもらうために公開した作品は、
発表した時点で、書き手から読み手に手渡した、ような感じにもなっています。
手渡すって言っちゃうと違うかな。
読まれた時点で、作品は、書き手だけのものではなくなると思います。作品―読み手、の関係に、書き手が割り込むことはできませんから。
だいいち、誰かに読まれた瞬間、もう、そのひとだけの解釈の新しい物語が一個生まれるみたいなものでしょう。
読み手と作品との一対一の勝負に、誰も横ヤリいれることはできねぇ!(熱血風)
そんなわけで、読者が作品に愛着を持つのは当然の流れです。
「閉鎖」は、単に好きだ面白いという感情だけでなく、読者が愛着を抱くにまで至った存在から、バッサリ切られてしまう衝撃があるんじゃないでしょうか。
だからあんなにもショックで、私なんかは、口惜しくて時には腹が立ったりなんかしてしまうのです。
もちろん、今までサイト運営お疲れさまでした…!の気持ちのほうがずっと強いのですが。
―――と、長文ぶったのは、ここまで読んでくださった方ならおそらく想像がつくだろう通り、
閉鎖なさったサイトさまがあったからです… orz
文章は残してほしかったな………。
カカイルサイトさまではなかったのですが。
不思議なもんで、商業誌の絶版を知ったときとは違う気持ちです。
絶版本のときは、アンティーク家具を求める好事家の気分になりました。翌日から古本屋を駆けずり回ったし。
今は、作者さまをブログなどで確認できるせいか、骨董品を前にした心地とは程遠いです。
古本ならな。まだどうにか入手できる望みもあるけどな。
…ネット小説は、頑張ってももう読めないだろうしな。orz ←自分の言ったことにダメェジ。
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