先日、従姉妹(Mちんの妹御)が遊びに来て、カカイルをやまほど読んでいきました。

私以外で、あれほど読むのが早い人間を久しぶりに見ました。丸一日以上滞在したのですが、その時間、メシとトイレ以外はずっとカカイル。ワタクシが厳選したカカイルをひたすら読む。読読読。

再録本もあったので、50冊は読んだと思います。小説のブ厚いやつもあったから、相当の量です。

したらば彼女が、本の山を消費しつつこう言ったのです。

折りしも深夜二時すぎ、「お泊り」すると、とりとめもない喋りが始まりがちな時間でした。

「私の中じゃ、カカシ先生は『最高の忍』だと思うのね。六歳から働いてたエリートの忍で。そういうひとは、もう一般人と感覚が違っていると思う。そのカカシ先生が、イルカ先生みたいなふつーのひとに心動かされるかな」

その疑問がひっかかって、「カカシがイルカを好きになる瞬間」が、どーしても腑に落ちないというのです。
話はおもしろいけど、どうも納得できない。と。

困りました。「萌え」をはずして、「カカシ先生がイルカ先生を好きになりそうな理由」を説明しなきゃならないんですから。

ていうか同人パロなんだから、ぶっちゃけそこは「こうなってほしい!つかこーなったらオイシイvv」っていう願望でしかないわけですよ。

ゆえに例えば「一目ぼれ」とか、もう無理やり好きにさせちゃったりとかするカカイルのほうが多いわけです。最初から好きだったり。

「カカシ→イルカ」なカカシ萌え或いはイルカ萌えだからこそ、好きの「きっかけ」はすっとばして、「カカシ→イルカ」そのものから書き始めることが多い気がします。

同人パロだから許せる荒業で、それこそ持ち味でもありますが。

でも彼女は、原作で書かれた設定のカカシ先生からすると、

「感情のコントロールに長けた『完璧な』忍であるカカシが、ちょっと笑顔がイイからって、イルカに惚れるか?(イルカスキーであれば『それだけイルカ先生の笑顔の威力がスゴイんだよ…!』といえるけど、萌えフィルターはずせば確かに…)」

みたいな…感じかな。なんというか。イルカ先生をけなすわけではなく、「あくまでフツーのひと」って感じだから、強固な『忍』然としたカカシを揺り動かすまでもないだろうと。

それにカカシの周囲は、言っちゃなんですが「スゴイ忍」ばかり。忍のレベルとしてはごくごくフツーのイルカが、目にとまるだろうかと。


――なんか色々刺激されました。

逆をいえば、そういう「普通」なイルカが、カカシみたいなすごいひとに好かれちゃうのが萌えであるわけですが、そういうふうにもってっちゃうのがカカイルなわけですが、

カカイル萌えしてなければ、抱いて当然の疑問なのでしょう。

「カカイルになりそうか、そうでないか」を、原作の設定から検証してみるという作業そのものが間違っているのですが、本気で悩みました。どう言っても「こじつけ」にしかすぎない。だってパロだし(爆)!

しかし状況証拠(苦笑)からみると、このふたりの間になんかあった…?と思わせる要素はいろいろある。


・「尊敬するあなたに追いつくくらい〜」のシーンで、イルカ先生の前で顔を赤らめるカカシ。なぜ?

・いつのまにかイルカ先生の、カカシ先生の呼称が「先生→さん」付けになっている。なぜ?

・かつ、三代目の前で口論したあとに「カカシ先生」が「カカシさん」と変化しているということは、この間に何らかの接触と和解がなければ違和感がある(イルカ先生の真面目な性格からして、親しくもないひとを「カカシさん」呼ばわりするとは考えにくい)。


あーでもこれだけのことで「なんかあった…?」とか邪推する時点でイタイ同人女だっつんだよ俺!!

うう。私の羞恥はおいといて、まあとにかく以上のような原作における「設定」はあるわけです。

しかし、いちばん大事な「ふたりの出会い」は宙に浮いている状態。もはやそこは空想に寄るしかない。

空想で作り出すしかない部分を「ありえなそう」と追及されると……もう想像でしかないんだから「いやぶっちゃけありえないし」と思うんだが、

せっかく大量のカカイルを読んでくれたRちんに報いるためにも、どうにか彼女を納得させたい…。

まあ最終的には「状況証拠」を並べて、「カカシがイルカを好きになってそうな可能性」についてあげるに留まったわけですが。

――でも実際、カカシ先生は確かに、もう簡単には誰かを好きになりそうもないキャラです。

私が思う彼は、おそらく忍と忍でないプライベートな自分の切り替えがものすごくできてるひと。

だってずーっと気を張ったままで生きることなんて不可能だと思うのです。自分の最適なテンションを保持し続けることは「人間ゆえに」不可能。

ただし彼は一種の「天才」なので、そうやって凡人のわたしが想像できる範囲外の特殊性を持っているということは、容易くありえるわけです。
つまり自然に、根っからの「忍」としてふるまえるということ。生きることに隠密が根付いているということ。

でも本当に心底「忍」だとしたら、毎朝慰霊碑に赴いて故人に話しかけるだなんてことをするだろうかと思うのです。

自分への戒め、後悔、そういったすごく「人間的」な部分を兼ね備えているわけですから、冷徹で冷酷な忍者ってだけの人間ではない。少なくとも違う部分を持っている。

そんなことから考えると、私が思うカカシ像というのは、「忍」の部分と「素」の部分が混在している人間。

原作においてもその時々によって「忍」である部分のカカシの意見が強くでたり、「素」で話したりするから、喋り方や喋る内容に場によってちょっとした違和感が伴う。
飄々としたキャラクター。

私とRちんはえらい長いこと話していたのですが、

「カカシ先生」の捉え方に齟齬がある以上、意見の一致というより平行線の距離感をはかるために論議していたようなものです。

カカイルに萌えない人間がみたカカイル、というのがよくわかりました。なんか創作意欲が刺激された。

ハーレクイン・ロマンスとかもそうなのですが、あれはもう最初っから「できあがる二人」が決まっていて、ハッピーエンドまでを楽しむ話です。
「この二人はくっつく」という大前提が読み手の頭の中にあるから、その時点である程度の「話の補完」がされてしまっているわけです。

私は、わりあいきちんとカカシイルカが描かれていて、初めて読むひとでも面白いと思えるカカイルばかりをRちんに薦めたつもりだったのですが、

いやーやっぱり「カカイル」ってだけでもう、勝手に頭で補完しちゃってたんだなあと。

「なぜこのカカシが、イルカを好きになるかわからない」なんて、新人文学賞の解説のよーな突っ込みをもらうとは思いませんでした。

そういう疑問を、自分はずーっと抱いてなかった、ということに、はじめて気がつきました。

カカイルにハマって四年。自分でも忘れかけていた原点を想起してもらった気分です。

同人パロのずるさも思い知らされた気分。ある程度の性格形成を原作に頼っちゃってるからなあ…。純粋な書き手の筆力だけで、読み手を納得させ、かつ面白いと思わせる話を書くのは、相当難しい。

Rちんはすっごく忙しいひとなので、あんなにだらだらまったり一緒にいて喋ったのは、実際小学生以来だったのですが、すごく楽しかったです。

あんだけカカイルについて話してもらったんだから、お返しに彼女がハマっているブリーチの感想も送らねばなるまい…。
漫画喫茶にいかなきゃだわー。

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